クラシックピアノでは、初級から中級へ移り変わるあたりで練習することになるのがバッハの「インベンションとシンフォニア」です。インベンションは2声(2つの旋律が同時に奏でられる)、シンフォニアは3声となっており、2声と3声では難易度に大きな差があります。今回は弾き方のポイントを中心に見ていきましょう。

インベンションとシンフォニアの意味と成り立ち

インベンションは「Invention」と書き、「発明」を表す「invention」と同じ語で、「発明」「工夫」といった意味になります。1712年にボンポルティという作曲家がヴァイオリンと通奏低音(チェロとチェンバロなど、低音楽器と和音楽器の2人で伴奏をするパート)の2重奏(通奏低音が2人なので、実際は計3人の演奏)のために「インベンション集」を作曲したのがこの曲名の由来となります。

シンフォニアは「Sinfonia」と書きます。「交響曲」を表す「symphony」と同じ語源で、「合奏」という意味になります。当時のオラトリオという形式では「シンフォニア」「レチタティーヴォ」「アリア」の3つを組み合わせていくことが多く、「シンフォニア」は楽器のみによるオーケストラ部分という意味で使われていました。

なお、「Invention」はラテン語由来、「Sinfonia」はギリシャ語由来ですが、両方とも英語です。

バッハの「インベンション」は1723年頃の作品であり、教育目的の作品として作られました。その教育の目的は次の通りです。

・鍵盤楽器で2声(3声)をきれいに弾くこと

・歌うように弾くことができるようになること

・作曲技法の指針を得ること

とくに「歌うように弾くことができる」ということは非常に大切です。

当時の鍵盤楽器は主にチェンバロとオルガンで、音量の変化はわずかしか付けられませんでした。そこでアーティキュレーション(音と音のつなぎ方)やアゴーギク(テンポの変化)、そして装飾法によって「歌うように弾く」ことを目指しました。現在の鍵盤楽器、すなわちピアノは強弱の幅が広いため、これも存分に使って歌うように弾きましょう。

インベンション・シンフォニアの曲順

インベンション・シンフォニアはそれぞれ15曲からなっており、番号と調が対応しています。

第1番 ハ長調 C Major

第2番 ハ短調 C minor

第3番 二長調 D Major

第4番 ニ短調 D minor

第5番 変ホ長調 E♭ Major

第6番 ホ長調 E Major

第7番 ホ短調 E minor

第8番 ヘ長調 F Major

第9番 ヘ短調 F minor

第10番 ト長調 G Major

第11番 ト短調 G minor

第12番 イ長調 A Major

第13番 イ短調 A minor

第14番 変ロ長調 B♭ Major

第15番 ロ短調 B minor

このようにしてみると、各調の主音がCから始まってだんだん上っていることがわかります。嬰ヘ短調(F♯ minor)のように使われていない調も9つあります。使われている15個の調は、当時良く用いられていて、他の楽器(弦楽器や管楽器)との相性が良い調です。調それぞれには意味があり、調特有の響きを感じられるようになると良いですね。

なお、曲順は難易度と関係ありません。後の項で弾きやすい曲、弾くべき曲を挙げますので、そちらを参考にしてください。

インベンションの弾き方

インベンションの目的は「歌うように弾く」ことにあり、その方法は以下の4つで作ることができます。

・デュナーミク(音の強弱)

・アゴーギク(テンポの変化)

・アーティキュレーション(音と音のつなぎ方)

・装飾

それぞれは互いに関連しあっており、どれか1つだけを取り出して語ることはできません。また、演奏者によっても考え方はそれぞれです。ここでは、筆者の考える方法の1つを紹介しますが、いろいろなピアニストの演奏を聞き参考にしてみたり、自分なりのインベンションの弾き方を作り出したりしてみてください。インベンションはその名の通り「発明」ですから、あなたの感性に多くのことが委ねられています。

デュナーミク(音の強弱)

デュナーミクとは英語の「dynamics(ダイナミクス)」と同じで、音の強弱の表現のことを表します。

バロック時代(1600年~1750年)の鍵盤楽器といえば、管に風を通すオルガン、弦を爪で弾くチェンバロが主でしたが、どちらも音量の変化に乏しい楽器でした。ですから、バロック音楽の響きは、強弱の変化が少ない印象を受けます。当時の音楽家たちは、その強弱の束縛からなんとか解放されようと、楽器に改良が加えられたり、演奏法に工夫がなされたりしてきました。

このような事情があるため、筆者はバロック音楽をピアノで演奏するときは、存分に音の強弱の表現をするのが良いと思っています。一方で、バロック楽器の音そのものを模倣して、音の強弱を控え目にするという演奏者も多いです。どちらを選んでも良いと思いますが、強弱を控え目にしたとしても、全てが同質な音になることはないように気を付けましょう。

デュナーミクの基本は、

・高い音は強く

・低い音は弱く

となります。人間が歌う時にこのようになっているからですね。単純なこと、と思われるかもしれませんが、これを意識して弾くのは結構大変です。

第1番の冒頭。だんだん高くなっていくにつれて強くしていきます。

まずは緑色の矢印を見てみましょう。それぞれのモチーフ(何回も現れる小さな旋律)が小さな山型を描いていたり、小節の変わり目で上のほうに進もうとしています。この山形に沿って少しでも良いので強弱の変化を付けることが大事です。

そして、デュナーミクの次の基本は、

・広がったら強く

・集まったら弱く

となります。

第6番の冒頭。集まって、広がって、と呼吸のように動きます。

この例では、緑の矢印は集まっていますのでだんだん弱く、赤の矢印は広がる方向に向かっていますのでだんだん強くしていくと良いでしょう。

ただし、ここで左手を見ると、・高い音は強くと矛盾しているように感じます。また、集まるときにエネルギーが凝縮されているように感じるため弱くしたくない、という気持ちが働くかもしれません。その時には左手だけをだんだん強くしたり、集まるにしたがって強くしたり、といろいろなアイディアを試してみましょう。

アゴーギク(テンポの変化)

バロック音楽は非常に自由で、楽譜に書いてある通りに演奏するものではありませんでした。バッハの奏法としてはあまり現れませんが、フランスバロックではイネガル奏法という、つながった音を不均等に演奏するのが優美とされ、浸透していきました。イネガル奏法はスウィングのようなリズムになります。

このような曲全体を通して支配するリズムもあれば、慣習的に速度を緩めたり早めたりするような箇所も存在します。一番大切なのは

・フレーズの終わりはテンポを落ち着かせる

ことです。特に曲の終わりは極端なほど遅くして構いません。

いったん偽終止で落ち着くのが大切です。

この例では、22小節目に入るときに偽終止という形があり、そのあと23小節目に全終止があります。

【徹底解説】終止形(カデンツ)って何?

このような終止形を把握すると、22小節目に向かってすこしスピードを緩め(緑の矢印)、偽終止でまたテンポが復活し(青の矢印)、全終止に向かって落ち着いていく(赤の矢印)というテンポの流れを作ることができます。

また、他にも重要なアゴーギクがあります。フレーズの中に登場するアゴーギクは次のようなものです。

・クライマックスでたっぷり歌う

・跳躍が大きいときにたっぷり歌う

・和音が複雑なときにそれぞれの音をよく響かせる

響きが複雑なので走らないようにしましょう。

17小節の冒頭の音(赤丸)はこの曲の中で2番めに高い音(最も高い音は10小節目)で、音域も非常に広がっています。このようなクライマックスを形成しているところはサラリと弾くのではなく、たっぷり歌って弾くとよいでしょう。

また、16〜17小節にかけて、臨時記号が多く、音が複雑になっています。ここを駆け抜けるように弾いてしまうと、何が何だかわからなくなってしまうため、しっかりと和声が分かるように丁寧に弾くことを心がけましょう。

アーティキュレーション(音と音のつなぎ方)

デュナーミク・アゴーギクは難しい技術ではありますが、表現としてはわかりやすい部類に入ります。それに比べてアーティキュレーションはただ難しいだけでなく、何をやれば良いのか分かりにくいという点で難解です。それだけ奥が深いのですが、今回は単純化して考えましょう。

まずはアーティキュレーションの種類です。

・レガート(音と音とを繋げて弾く)

・テヌート(音を保つように十分に伸ばす)

・スタッカート(音と音とを切って弾く)

・アクセント(フレーズの中でその音が目立つように弾く)

・マルカート(1音1音を際立たせるように弾く)

ほかにも種類はたくさんありますし、名前のついていないアーティキュレーションも作ることができますが、まずはこの5つを覚えておきましょう。

そして、どのアーティキュレーションを用いるか、ですが、これは演奏者のセンスに任されることが多いのが事実です。練習曲集で有名なツェルニーはバッハの楽譜の校訂作業をしており、演奏法として説得力のある記号を書き込んでいますので、それを参考すると良いでしょう。

ツェルニーの丁寧な校訂

緑の部分はレガート、赤の部分はマルカートとなっています。左手の16分音符は何も書いていませんが、基本的にはレガートで弾くと良いでしょう。

自然なアーティキュレーションとは次のようなものです。

・経過音、刺繍音はレガート

・跳躍するときはスタッカート

・長い音価の時はテヌートかマルカート

・次の拍や小節にタイでつながるときはアクセント

少し用語が難しくなってしまいましたね。

「経過音」とは、ある音からある音まで隣同士の音で到達すること

「跳躍」とは3度以上の音程のこと

「音価」とは音の長さのこと

となります。バッハの音楽は楽譜には書かれていなくても宗教的なものであったり、踊りであったり、弦楽器を意識していたり、と様々なスタイルで書かれています。それをよく把握して演奏することが理想ですが、膨大な勉強をしなければいけなくなってしまいますので、ツェルニーのような校訂者の書き込んでくれた記号の通りに弾くのが良いでしょう。

装飾

そして、最も奏者にとって自由で、曲そのものをガラリと変えてしまうものが装飾です。バロックの名前の由来である「ゆがんだ真珠」という言葉の元ともなった装飾は、バロック音楽のいしずえでもあります。

装飾法はそれだけでも何冊も書籍が出ているように、奥が深くそして難解です。ひとつの大きなヒントは、バッハの自筆譜にあたることです。

美しい自筆譜ですね

バッハは当時の他の作曲家と比べると、そこまで装飾を演奏者に委ねていません。自由度が失われる一方で、当時の装飾法を理解する助けとなり、またバッハの感性を拝借することができるため、まずはこの通りに弾くとよいでしょう。

自筆譜は、ソプラノ記号・アルト記号といった、ト音記号・ヘ音記号以外の記号が使われており、慣れていないと非常に読みづらく感じるため、通常の楽譜で見たい場合は「Urtext」あるいは「原典版」と書かれている楽譜を参照しましょう。これは作曲者の自筆譜に忠実に作った楽譜、という意味です。また、アーティキュレーションの項でも述べたように、ツェルニーなどの校訂版を見ると、1つの答えがわかりますから、それに忠実に演奏するのもおすすめです。

あとは、たくさんの演奏を聞いて、好きな装飾を取り入れていきましょう。

おすすめの番号

インベンションとシンフォニアはあわせて30曲ありますから、1曲1週間で弾いたとしても、8か月ちかく掛かってしまいます。もちろん、8か月で全て弾き終えたとしたら、それは必ず大切な経験となるでしょうが、なかなか大変なので、おすすめの番号をお教えします。

インベンション

第1番 ハ長調

やはり、まずは第1番から始めたいものです。作りがわかりやすく、転調の流れやクライマックスの作り方が自然です。ピアノの基本を学ぶことができますので、この曲だけはぜひ練習して下さい。

第13番 イ短調

第13番は1番とうってかわってアルペジオを基本とした曲になっています。和音をしっかりつかむことで、楽譜を見た時の印象よりは弾きやすくなります。また、途中様々な和音が出てきて、色彩の幅が広いので、ぜひそのようなところも味わって欲しい一曲です。

第7番 ホ短調

歌うように弾くというのがとてもよく似合う曲です。流れるような旋律と、跳躍の塩梅が素晴らしく、この曲を弾くだけでピアノで歌うということを学ぶことができる傑作です。

第8番 ヘ長調

インベンションの中では第1番の次に有名なほど良く弾かれる曲です。インベンションを弾くという方はおそらくハノンやツェルニーも弾いてきた方が多いと思いますが、そのような基礎練習の集大成のような曲になっています。それだけに弾くのは大変ですが、ぜひ挑戦してほしい曲です。

シンフォニア

第1番 ハ長調

やはりシンフォニアも第1番から始めると良いでしょう。内声と呼ばれる真ん中の旋律は左手で弾いたり右手で弾いたり、受け渡したりと、かなり技巧的になります。3声の曲を弾くということの基本をしっかりと教えてくれる曲となっていますので、ぜひ弾いてみてください。ただし、インベンションに比べると難易度は跳ね上がります。まだ難しいな、と思ったら、また半年後や1年後に挑戦するようにしましょう。

第6番 ホ長調

第一番と同じく、音階を基本とした主題で始まりますが、途中にはアルペジオが入ってくるなど変化に富んでいます。曲のスタイルはジグという舞曲になっており、9/8拍子の練習にもなります。シンフォニアの中では比較的弾きやすい方ですので、ぜひ挑戦してみてください。

第12番 イ長調

主題が非常に美しく、歌心が大切になります。また、この旋律が内声や低声にも出てくることで、旋律がどこにでてきてもしっかりと歌うという大切な技術を学ぶことができます。前に紹介した1番6番からさらに難易度は高くなりますので、ピアノに自信がついてきたら取り組んでみましょう。

第9番 ヘ短調

インベンションとシンフォニアの計30曲のうちの最高傑作と呼ばれることもあり、バッハの生前から非常に高く評価されていた名曲です。出だしの左手の半音階はラメントバスと呼ばれる形式を取っており、イエスの受難の悲しみの表現として使われています。

この曲の旋律・和声・リズムどれをとっても極めて複雑で、3声それぞれが入り組んでいるため、演奏にはピアノの技術だけでなく、和声や対位法に対する深い理解と、集中力を必要とします。

自筆譜

バッハの自筆譜の多くはimslpという巨大楽譜アーカイヴで無料で閲覧することができます。バッハの自筆譜は、コンピューターで浄書された楽譜よりも、多くの情報を含んでいます。連桁(八分音符や十六分音符を繋ぐ横棒のこと)が直線で書かれているか、曲線で書かれているか、連桁をまたぐような旋律の書き方など、それぞれに意味を見出すことができます。本気で曲を仕上げたいと思ったときは、ぜひ自筆譜にあたってください。

ただし、右手は通常ソプラノ記号(第一線がC)となっていますので、注意が必要です。

自筆譜から得られることはたくさんあります。

名盤

インベンションとシンフォニアは有名な曲ではありますが、練習用という意味合いがあり、あまり録音が豊富ではありません。その中でも特に優れている録音を紹介します。

アンドラーシュ・シフ

ハンガリー出身のピアニストで、バッハの名盤をいくつも残しており、繊細で歌心が豊かな演奏が特徴です。とくに装飾音の入れ方は非常に美しく、練習する際には必ず参考にしたほうが良いでしょう。

グレン・グールド

バッハ弾きといえばこの人を挙げないわけにはいきません。一音一音に対するこだわりとそれを実現させる超越的な技巧によって、見事にグールドの世界を作り出しています。シフとはちがい、なかなか参考にするのは難しい演奏ですが、バッハがいかに自由であることを知ることができます。